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ある神の独白(楽園のおはなし0章SS) TOP / NEXT |
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(死の創傷) 小さな黒塗りの王冠、小振りな漆黒の短剣、薄生地の外套から覗く暗黒の髪、血管さえ浮いて見える青白い肌。 その方が冥い地の底を歩く度、多くのものは恐れ慄き、自ら道を譲った。 金持ちだった老婆も、貧しかった老父も、怒れる戦士も、恐れ知らずな勇者も、生意気な子供も、身重の女でさえ 誰ひとりとしてその方に逆らう事はなかった。それぞれの視線は反らされ、伏せられ、何か物言いたげではあった。 だが、彼らはその方が返事を齎すような性格ではない事を知っている。 通行を妨害しないでいるのが一番だとも。 彼の持つ黒い炎を灯した黒曜石のランプが、嘲笑うように音を立ててからから揺れる。 整備された区画の隙間を縫うように走る、青白い冥府の河。その上に橋と呼ぶには粗末な霰石の道が行き交う。 凹凸の激しい道のりは、さながら老賢者が骨と皮ばかりの腕を伸ばし、無理やり繋ぎ合わせて造ったかのようだ。 かの方が道を進み、川の上流へ向かおうとする途中、見目麗しい女がひとり道の脇に腰掛けている。 白く輝く足に、濃い青色の髪。長い睫毛を震わせて、女はふと足を止めた黒尽くめの男を見た。 「こんばんわ、『タナトス』」 さらさら流れる清水のような、玲瓏と透き通った声が響く。 このあたりは冥府の河が地底目掛けてどうどうと流れ落ちる、言わば滝のようになっていた。 それでも女の声は水音に掻き消される事なく、真っ直ぐ彼に届けられる。 それでも彼の方はいつも通り俯きがちのまま、再び無言で足を気怠げに動かした。 配慮のつもりであるのか、女の横を通ろうとした際、微かに身体を彼女の背に平行にし、横歩きになる。 「別に、貴方を取って食べたりしないのに」 「……こんなところで何を」 「! あら、珍しい。応えてくれたのなんて何千年ぶり?」 振り向くと、男は蟹歩きの格好のまま固まっていた。頭では不謹慎と分かっていながら、女はぶふっ、と噴き出す。 男は眉一つ動かさず――フードに隠れて表情はまるで見えないが――ただ冥い目で女を見下ろしていた。 「『スティクス』。夜光蝶からレテ川の水位が変動したと聞いた……何が起こっている?」 「ああ、それならもう御方様に報告してある。大した問題ではないわ」 「大した事があるから皆騒いでいるのだろ」 「ふふ、真面目ね。レテの水は『忘却』の水。手放したい思い出を洗った誰かがいたのよ、きっと」 スティクスは冥府に流れる大河の女神で、古の時代の神々の血を濃く引いている。 彼女が支配する川はこの世とあの世の狭間に流れ、生者と亡者が互いの領域を侵さないよう厳しく分け隔てる。 レテ河は雄大なスティクスの川を支える流れの一つで、その水には忘却の御力を讃えているという。 亡者が川に身を投げると、彼は川の力で生前の記憶を忘れ、現世への未練を断ち切りやすくなると言われていた。 「忘れ去りたい記憶などあるものか。それらこそが至上の惜しむべきものだ」 男の呟きにスティクスは眼を細めた。 ぼそぼそ響くぶっきらぼうな声、フードの隙間から伺える陰気。男は名をタナトスといった。 ヒトをはじめ、ありとあらゆる生命が逃れる事の出来ない共有の運命――「死」。 彼は冥府において、死を司る神だ。彼の持つ黒い短剣は、死を間近に迎える生命の「毛」を一房だけ刈り取る為に用意される。 毛髪、鬣、髭……彼に毛を刈られたものは皆等しくその場で朽ち、長い冥府への道へ下り、スティクスの川を渡る。 一度だけ、毛がないものはどうするのだ、と聞いた事があった。 その時の彼は、無言ながら目線はあまりに雄弁で、スティクスは微かにユーモアを感じさせられたものである。 黒塗りの瞳は射干玉より遥かに暗い。 口をへの字に結んで、タナトスは長い服の裾から青白い指を伸ばした。滝の反対側、何者をも映さない暗闇の先を指し示す。 「? なぁに、どうしたの」 「……報せのようだ」 長い足を優雅に組み替えながら顔を上げ、スティクスは眼前、ゆるりゆるりと近付いてくる影を見た。 木材と仮漆(ニス)の匂い、不気味に奏でる櫂の音、烏文木で出来たランプの灯火、青白い夜光蝶の羽撃き 。艶やかな上塗りは濃紫の灯に照らされ青々と輝き、二挺の櫂は誰も触れていないのに身勝手に宙をぐるぐる回る。 それは一挺の舟だった。傍らの滝など目もくれず、舟は二人の目の前に浮いている。 目を凝らせば、甲板に何かが立っているのが見て取れた。 というより、せっかちな船乗りの方が自らぶんぶん手を振ってきてくるので、 スティクスは苦笑い、タナトスはフードの陰で一層眉間に皺を深めただけでいた。 「やあやあ、タナトスの旦那ー! スティクス様ぁー!」 「お仕事ご苦労様ね? 『カロン』」 「はぁい、そりゃあもう! 真面目なだけが、あたしの取り柄で御座いますからねぇ」 「……真面目、か」 「あら、真面目なのは良い事よ。貴方が舟を出してくれているから、わたしもこうしてゆっくり出来るのだし」 嫌み混じりのスティクスの言だが、三者ともに神でありながら、この中で最も力を有するのはスティクスである。 それ故に、冥府の中でも一等地にあたる高原地帯に、白銀に輝く豪奢な神殿を与えられているほどだった。 生まれも血筋も、増してや「冥府の広域を巡る昏き河」を前に、一介の死神や舟守に何が出来ようか。 「へぇ、そりゃこの冥府と来たら莫迦みたいに時間だけは有り余ってやすからねえ! 暇潰しは大事ですぜ!」 「ええ。ほんとうに、ね」 「……」 タナトスが何か言うより先に、カロンは老人じみたしわくちゃの顔を震わせ、豪快に笑った。 嫌みなど通用しない。 何せ彼は素直で真面目、神というよりその僕である天使に近い気質を有している。 冥府の大河に舟を浮かべ、あの世とこの世の橋渡し役を担う漕ぎ手。 それがカロンだ。 冥府の門を警護する魔獣・ケルベロスとは似たもの同士で、時折菓子や舟渡賃をやった、やらないで揉めている。 それでも彼は来る日も来る日も舟を漕ぎ続けていたし、舟歌代わりの饒舌さは聞いていて良い暇潰しになった。 もし彼が少しでも不真面目な性分であったなら――その時はスティクスに八つ裂きにされていただろう。 「それでカロン、何か用があったのではなくて?」 「あっ! へい、そうなんっすよ」 いつも通り始まるカロンのお喋りを遮るスティクス。カロンは特に気を悪くした風でもなく、ぽんと手を打った。 「いやねぇ、あたしも長い事橋渡しやってますが、今日は珍しいのがあたしの船着き場に流れて来ましてねぇ。 そりゃ、その時のあたしときたら、仕事帰りにあの忌まわしい三つ首莫迦のケルベロスから盗っ……じゃない、 『分けて貰った』バニラクッキーとマフィンに夢中だったもんですからね、最初は気が付かなかったんですわ。 見てビックリてなもんでさあ。こいつぁ放っちゃおけないってんで慌てて舟に乗せてやって運んでやったんで。 まさかあんな珍しいもんがこんな所まで無傷で流れて来るなんてねぇ……竪琴のオルフェウス以来の珍事ですぜ」 「珍しいもの?」 「へえ、『こいつ』でさあ」 長くなりそうだ、と踵を返しかけたタナトスを宥めるように話を促すスティクスに、カロンはぱちぱち瞬きした。 思い出したように彼がローブの中から抜き出した骨と皮ばかりの手は、彼の自慢の舟の甲板へ向けられる。 首を伸ばし、ふふんと胸を張るカロンを訝しみながら、二柱の冥府の神はそれを覗き見た。 「これは……確かに『冥府に於いては』珍しいものらしい」 「そうでしょう、そうでしょうとも! あたしも目ん玉吹っ飛ぶってもんだ!」 「あらあら。『半分生きていて半分死んでいる』。まあ、とても不思議な『亡者』ですこと」 血管さえ浮かぶ白い肌、夏の空を湛えた青い髪、尖晶石を思わせる艶やかな色の翼、柔らかな肢体の死体。 血濡れの「天使」がそこにいた。無造作に横たわったまま、娘はぴくりとも動かない。 「……胎(はら)を中心とした下腹部の殆んどに、片足、腕の損傷。首は組織が剥き出し、右の耳も破損している。 円形の穴の周囲には高温で焼き払われた痕跡がある。特徴的なのは焼け跡の琥珀化が進行している事だ。 『喰天使』の仕業に他ないだろう。同胞たる天使を独自の判断で神の許可なく食らい糧とする特殊型の高位天使。 一度『喰』が発動されたら、天使の肉体はその場で完全に焼かれ、彼の者に取り込まれてしまう筈だ……だが……」 「そうね。半分生きていて半分死んでいる。喰の進行は止められないのではなかったかしら?」 「その通りだ。よほど腕の利く天使だったか、或いは能力発動中に邪魔が入ったか」 「……そうだったとしても喰は始動した時点で能力者の都合お構いなしでしょう。だからおかしいのよ、この死体」 死体といってもここは冥府であり、冥府に於ける亡者とは、即ち冥府に生きる住民に相当する。 故に、スティクス、タナトスの二柱を前にして、死体にあたる生ける娘は困惑していた。 相手が神である事は勿論、言わば穴だらけの自身の身体に羞恥を隠し切れない。膝を折り出来るだけ身を縮める。 「初めてお会いするわね。わたしはスティクス、こちらはタナトス。暇潰しがてら冥府の管理を担っているわ」 「余計な話は無用だ。娘、お前の名は何という」 「あら、タナトス。そんな責めるような口ぶりでは女性の心は開かないものよ。気を付けないと」 「……責めている覚えはない」 「うふふ、ごめんなさいね。このひと人見知りなの。あまり気に病まないで頂戴」 眼前の神々は堂々としたものだった。己の無様な姿にまるで動じていない。 「……生前の名は、『アンジェリカ』と申します」 困惑と動揺に駆られたまま、娘は洞窟の岩肌に片膝を着き、頭を下げた。 「嘗ては神々の楽園にて『知恵の大樹』の管理を任されておりました、天使名は『ラグエル』としております。 この度、神の世が黄昏の傾きに沈んだ関係で喰天使に協力を依頼し、冥府に堕つる私刑を下して頂きました」 すぐ近くから、先の滝の水音がどうどうと響いていた。 娘の話に、二柱の神は互いに言葉を呑む。知恵の樹、高位天使ラグエル。知らぬ神などありはしない。 創世の頃、あらゆる神々の御力と知恵とを集結させ創られた至宝、知恵の樹・生命の樹。 神の万能を象徴する二本の樹は、それぞれ森羅万象に共通する知恵と生命を湛え、神々の目に届く箱庭に植えられた。 ラグエルとは、二対の至宝のうち世界中の記憶と記録、万有の知恵を宿した銀林檎の大樹を管理する天使である。 「その昔、契約の女神に仕えていたと聞く。それが何故今時分、ここに」 「私刑とは物騒ね。貴女、一体どんな過ちを犯したの?」 「それは……」 「おい、スティクス」 「あら、遮らないで頂戴、タナトス。物事には順序というものがあるでしょう」 文字通り責めるような物言いのタナトスに掌を翳し、スティクスは悠然と微笑んだ。 口にはせずとも、さも面白くない、と言う風にタナトスは口を閉ざす。 スティクスが差し出した反対側の手が、続けて、と先を促してくる。 天使は微かに頷いた。 「今代の喰天使は、わたしの婚約者でした」 タナトスは顔を逸らしながらも、娘から目を離さなかった。 それほどまでに天使は美しい生き物だった。 空色の髪に赤紫の瞳。喉の火傷や腕などの穴を気にして小さく畳む身体、淡々と紡がれる透明な声。 確かに、世界を探せば彼の娘より美しいものなどたくさんある。 天上にあった神々の園には美を司る女神がいたし、スティクスは勿論、その祖母や母などもあらゆる者を虜にするほど 容貌に優れる事を、タナトスは知っていた。しかし、どうだ―― 「彼にしか頼めない事でした。わたしの罪を明るみにすると同時に、わたしの造反を世に知らしめる為には」 ――彼の心は、心臓の鼓動は、血液の奔流は。人知れず、彼の娘に取り憑かれてしまっていた。 「造反? 一体なんの事。神々の黄昏(ラグナロク)と関係が?」 「偉大なる冥府の河の方。仰る通り、わたしの造反とはラグナロクと関連あるものです。直接ではありませんが」 「……」 「どうか深く追求される事をなさらないで頂きたいのです。いつ何時、聞き耳を立てられるか分かりませんので」 言い回しに何か引っ掛かるものがあった。釈然としない。無言で頷きながらも、スティクスは双眸を細める。 つい数年ほど前の話だ。 天地創造に携わった神々の系譜が治める神聖な神の国が、何者かの手で破壊、壊滅させられたという。 神々の黄昏と呼ばれる一連の現象は、冥府に莫大な数の天使や獣を流し込む史上最悪の出来事として語り継がれている。 自身とも関わりがあった親しい神の一部も、ラグナロクに巻き込まれ行方知れずとなった。 忌まわしくも恐ろしい、不可解な神話時代の終焉……眼前の天使はそれに関与していたと仄めかした。 彼女をここに、亡者を囲う冥府に迎え入れていいものか。 増してや、喰天使といえば神の命令なくして独自に同胞を裁く力を有する不穏因子。それと婚姻関係にあったとは。 (『王』に相談するのは勿論として。死を司るタナトスから見たら、この娘はどんな立ち位置にあたるのかしら) 盗み見るも、タナトスは微動だにしなかった。 彼は告白は終わったとばかりに俯き、無言を貫くアンジェリカに、未だ真っ直ぐ視線を注いでいる。 「タナトス、貴方、どう思う?」 「どうとは」 「いいえ。信憑性のある話だとわたしは思ったから。貴方はどうかと思って」 「……興味ない」 「え? あ、ちょっと。お待ちなさいよ、タナトス……」 スティクスの制止を振り切るように、タナトスは踵を返した。足早に滝エリアに戻る。 ……正直、彼は「死」の基本システムに異常が来されていないのであれば、ラグナロクなどどうでもよかった。 調べようとも思わなかった。 ただただ旧神々の楽園を歩いて回り、死に瀕した者の横に立ち、その髪を切断した。難しい事ではない。 他の神々の命より、自身の勤めの方を優先したのである。 ラグナロクの混乱に乗じて、楽園の中で不穏な動きがあった事も知っている。 だがそれが何だというのか。正味、興味が惹かれなかった。 唯一仕事以外で関心あるものといえば、背後にいる天使の娘くらいのものである。 「娘、わたしは多くは聞かぬ。好きにするがいい」 「!? タナトス、貴方……」 「え……」 「だが、この冥府を治めるのはわたしではない。ここで生命を繋ぎ止めたいというのなら、着いてくるがいい」 「……生命を、繋ぎ、止める……」 「その為には冥府の王に従え。元より逆らうつもりであるというなら、わたしは知らぬ」 彼女は必ず追ってくる。その確信が、タナトスにはあった。 スティクスが言葉を嚥下する気配がある。それと同時に、不安定なリズムの足音が背後から追ってくる。 娘のものだとは、容易に想像出来た。我知らず優美に微笑み、死神は滝の頂上、冥府の王の元へと足を急がせる。 婚約者など知った事か。 彼女の足音と息遣い、それは酷く耳に心地好く、自身の内側に新たな感情を沸き立たせるものだった。 |
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