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ある神獣の足取り(楽園のおはなし4章SS)


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(遥か昔の記憶)


その頃はまだ大地も空も境目がどこか曖昧で、海なんかは泥が堆積しているように粘ついていた。
それでも、オレサマたち二匹の「兄弟」にはまるで関係なかった。
古の神々のうち、偉大なる大地の母が創った幾つかの特別な生命。ニンゲンとも神とも天使とも違う、獣や鳥、
動物、魚などを模したそれらを、件の神々も新しい世代の神々も、皆が纏めて「神獣」という呼称で寵愛した。
オレサマたちは神獣のうち一つ、それも神々の間じゃ特別気に入られた真っ黒な毛並みの獣(ケダモノ)だ。
古い時代の神々のうち、異形と名高く、忌まれた蛇女神と巨大男神。その間にオレサマたちは生まれた。
毛足の短い兄貴と、うんと長いオレサマ。二匹揃えば向かうところ敵なしで、自由気ままな毎日だった。

わけの分からない浮遊物がそこら中を闊歩して、時折ぼんやり火の玉みたいに明滅し、真っ暗な道を照らす。
進める足取りは軽やか、砂に塗れた地盤を蹴り飛ばせば、重力なんか無視して身体がふわりと宙を舞う。
虹の色彩を纏う女神が丸一日駆けて、ようやく辿り着く、混沌とした世界の最果て。
オレサマたちの最新のお気に入りの散歩道、ちょっとした隠れ家……冥い光に閉ざされた、狭き下り坂。
死人の群れと魔力の断片、記憶の残照が漂うそこを、世界創世の神々はこぞって「冥府」と呼んでいた。

「兄貴ィ、獲物のニオイがするぜェ」

黒い尾を揺らして眼下を示す。黒と紫、紺と鼠、色とりどりの砂丘の上、小さく身を丸める生き物がいた。
オレサマの隣で兄貴がふんふんと鼻を鳴らす。「左から順に」、小物だ、弱そうだ、小さい、と声が連鎖する。
兄貴、こと黒毛の犬型神獣「ケルベロス」は血を分けたオレサマの実兄だ。短い毛足に金の目ン玉、それと……
頭が三つも生えている。ついでにいうと、オレサマより遙かに図体がデカい。オレサマが牛一頭くらいとすりゃ
兄貴はゾウか、或いは世界のどっかにいるっていう陸上最強の獣(ベヒモス)ほどだ。とにかくスゲェデカい。
そんなだから、兄貴と話をするとき、オレサマは兄貴の足元で二足立ちする事が多かった。
兄貴は耳はいいが、なんとなくだ。その方が兄貴と話しやすいような気がしていた。癖みてェなもんだろう。
いつもと同じく、後ろ脚をぴんとしながらオレサマは兄貴のぼやきに頷いた。のそりと兄貴が背を丸める。
倣うように姿勢を低くして、全身をしなやかなバネのようにする。駆けっこの合図だ。
腱を弾いて、眼前、駆ける。視界の端、砂粒がぱっと悲鳴を上げた。

『――!』

勝負は一瞬、獲物は兄貴の右足の下にいた! 出遅れた、今日の勝負はオレサマの負けだ。
オレサマが舌打ちしている間も、獲物は毛むくじゃらの体をばたばたと忙しなく動かして抵抗していた。
兄貴のデカさを前にすりゃァ、逃げるのなんざ無理に決まってる。分かってねェなァと、オレサマは笑った。
ほれ、やる、好きにしろ――そんな声が連鎖する。首を巡らせると、兄貴が真ん中の首で獲物を指していた。
左は得意げ、右の頭はそっぽを向いている。兄貴は感情豊かで、オレサマより人間味がある神獣だ。
よくよく見ると、毛むくじゃらと思った獲物の身体は長い毛で覆われていた。オレサマとどっこいどっこいか。
ぶんぶん振り続ける頭には渦巻き貝のようなぐるぐる巻きの角が二本生えていて、金ぴかに光っている。
長い毛は白金か白鉛鉱のように独特の光沢を帯びていて、揺れるたびに艶々とした光を冥府の暗がりに零した。

(……なんかヤバくねェか)

ぱっと見でもただの獲物じゃなさそうだ。やたら気迫というか、存在感がある。
兄貴ィ、そいつァ離した方が良さそうだぜ――皆まで言うより先に、ひやりと冷えた風が吹き抜ける。
背筋を凍らせるような異常な冷風だ、思わずオレサマは一歩飛び退き、兄貴は三つ首をもたげた。
一瞬、刹那の隙。兄貴の足下から獲物がぱっと飛び出す。
暗がりの中に輝きが星屑みてェに飛び散って、それはそれは綺麗だった。
獲物は山羊だった。
どっこい、ただの山羊じゃない。上半身が山羊、下腹部より下はイルカかアザラシに似た魚の形で出来ている。
砂地の上を、前足と尾鰭を使って器用に飛び跳ね、兄貴と大きく距離を取る。
一度寒気に身を震わせてから、オレサマは兄貴を見上げた。三つ首はどれも獲物を凝視して、微動だにしない。
その時だ。どこからともなく、足音がした。
さりさりと砂を堅く踏み締めながら、暗がりの奥、逃げる獲物と入れ替わるようにしてオレサマ達の前に立つ。
獲物がソイツの後ろに回る。首だけ出してこっちを見る。新たな客はソイツには触れない。
オレサマ達を睥睨しながら、静かに口を開いた。

『園から逃げてきたか、パーン』

真っ黒い髪に黒瞳、その存在感が、奴が神族であるのを物語る。何の話だと、オレサマは兄貴を見上げた。
兄貴は変わらず、獲物……というより黒髪の男を見ていた。口元が全部閉じている。嫌に緊張している。
コイツは近寄っちゃならねェやつだ――オレサマもそいつに目を向ける。獲物の事はどうでもよくなっていた。
庇うように獲物の前に男の手が伸ばされる。安堵しきったのか、獲物はふうっと大きく息を吐いた。

『違うよ、それは違う。実はね、テュフォンが地上で大暴れして、宴を楽しんでいた僕らを追い回したんだ』

「テュフォン」。
オレサマも兄貴も、顔を歪めていたに違いない。テュフォン。その名は、オレサマ達の父親の名だった。

『あんまりにも暴れて酷いもんだから、僕ら慌ててしまってね』
『何者かは止めたのか』
『ゼウスが止めようとしていたのは見たけど……僕だけじゃないよ、皆散り散りばらばらに逃げたから』
『お前は、ここに何をしに?』
『僕はね、川に飛び込んだんだ。どうやら間違えてここまで流れ着いてしまったみたいだよ』

「ゼウス」。それは、天上界を治めんとふんぞり返った神の名だ。
その力が強大だから、思想と言動が不穏だから。オレサマ達はそんな理由で、家族ぐるみで邪険にされている。
兄貴はフンと鼻を鳴らし、オレサマは低く唸った。目の前、男は双眸を細め、山羊はあわわ、と悲鳴を上げる。
よくよく目を凝らすと、山羊は頭だけがそれ、上半身はヒト型の男、下半身は太腿から下が山羊になっていた。
いつの間に身長を伸ばしたのやら、黒髪に庇われていい気になっているのに違いねェ。オレサマは鼻で笑う。
山羊男、黒髪にパーンと呼ばれたソイツは一瞬むっとした顔をした。再度黒髪が手を前に出し、出るのを塞ぐ。
不服そうな山羊男と、仏頂面まんまの黒髪。なんだかその組み合わせがおかしくて、オレサマは一人で笑った。

『笑い事じゃないよ! お前達、テュフォンとエキドナの仔だろう! 親の管理くらい……』
『止せ、パーン』
『だって!』
『余の治めるこの冥府に、余計な争いは無用だ』

今度はオレサマが固まる番だった。
冥府を治める……黒い髪に黒い瞳、冥府に住まうヒト型の男神。

「ハーデスか」「ハーデスだ」「ハーデスだって?」
「! 兄貴、」

兄貴の首三つが同時に喋る。オレサマは黒髪を見やる。
「ハーデス」。ソイツは正に、この死者の国、冥府を治める高位神だ……確か、ゼウスの直系の兄と聞いている。

(……おいおいィ、とんでもねェのが出て来たじゃねェか)

ソイツが腕を一薙ぎすると、死者の骨は粉々に砕かれ。目を瞬きさせると、首と胴体が二つに分かたれ。
はたまた、地上に姿を現して死を待つばかりの老若男女、動植物問わず、問答無用で冥府に引きずり込み。
その残虐、冷酷無比な判断基準で、死したばかりの亡者どもをバラバラに引き裂くという裁判に耽るという。
暗い地に長く住まう事で、精神を病んだと言われるイカれた統治者。それが、冥府の主ハーデスの印象だった。
然るにオレサマはぶるっと身体を震わせた。兄貴がオレサマを庇うように前に出る。
パーンとやらは、何だ、文句あるのか、引っ込め犬、と喚いていた。
均衡を破ったのは、ハーデス本人だ。一度だけ、奴は長く、ながーく嘆息した。
呆れる、退屈を嘆く……そういった意志をひしひしと感じさせる、やたらと長い嘆息だった。

『パーン。イリスとアテナが迎えに来ている、行ってやれ』
『え?』
『えっ、ではなかろう。ここにいてもお前の神格は保たれまい。急いでやれ』

視線はオレサマ達から離さないまま、ハーデスは目だけで山羊男を促した。山羊男は多少不満そうだった。
それでも奴は、ハーデスが首を動かしたのを見て渋々従った。すれ違い様、オレサマ達を睨むのも忘れない。

『次は、貴様等か』
「!」

山羊男に下卑た笑いを返してやったオレサマは、ハーデスの声に現状を思い出す。
ぱっと奴を見るも、冥府王は何やら、兄貴に目を向けていた。兄貴も奴をじっと凝視している。

「兄貴ィ」

何でかは知らない。自分でも分からんが、オレサマは妙に心臓がざわざわして、横から兄貴に話しかけていた。
兄貴の長い尾がぱたりと揺れる。返事の代わりだ。
それでもオレサマは、実のところ兄貴がオレサマより冥府王に関心を向けている気がしてならなかった。
兄貴が無言で踵を返す。倣うようにオレサマも続く。冥府王は何も言ってこない。
最後に一度だけ。来た道、地上に出る坂を上り始めたところで、オレサマはハーデスに振り向いた。
冷ややかな空洞だけが、暗がりの中で沈黙していた。



……

「――冥府の犬、飼い犬、番犬。冥王の配下にして臣下、忠実なしもべ。それが『ケルベロス』。アナタの兄」

眼前、両目を閉じたままで少女が呟く。
正確には、少女の形をした「物体」が。

「アナタと彼の道は分かたれた。噂のように残虐な……本当のところはどうか知らないけど、冥王の手によって」
「ハァ、そうかい。で、何だ? 何が言いてェのかよく分かんねェんだがなァ。『お嬢ちゃん』」

オルトロスは、苦いものを噛んだような心地でいた。
触れられたくない、思い出したくもない話。兄の話。
離れ離れにされ、二度と会わせぬと宣告された過去。
苦いもの。苦い味。思いも寄らぬ神々の報復だった。

「会いに行ってみたらと思ったの。『喰天使』がそうしているように。存外、簡単よ。冥府に降りていくのは」
「黙りな。そのカワイイ首、ポッキリいったら困るだろォ」

問題点は多々あった。
蛇神である母親は多産の神で、ありとあらゆる恐怖の怪物、魔獣を産み落とし、世界中を震撼させた。
父親は父親で、ゼウスと世界の統治権を競って激しく争い、これに敗れ、地の果てへと追いやられた。
兄は、そして自分は、その戦後処理としてそれぞれの身の振る舞いを制定された。
兄は冥府王の元に下り冥府の番犬、自身は神々が愛して止まないという深紅の牛の番犬として拘束された。
他の兄弟姉妹もまた、神々の道楽や矜持に付き合わされる形に合わせ、それぞれ世界に散っていった。
オルトロスにとって不幸だったのは、一番親しくしていたと思っていた兄が、あっけなくハーデスに着いた事だ。
家族の為、何より自分の為に、兄ならばきっと怒って神々に楯突いてくれる筈だと……そう思っていた。
それがどうだ。蓋を開けてみれば、兄は宣告を受けた瞬間、こちらに見向きもせずに冥府に下っていったのだ。

「兄貴は兄貴で仕事で忙しいってヤツなんだろォ、オレサマが口出しすんのも野暮だからなァ」

そうでも言い聞かせてやらないと、自棄を起こしてしまいそうな気がしていた。

「そう。不貞腐れているの、それとも寂しいのかしら?」
「おいィ、今日は随分と噛みつくじゃねェか。オレサマに何か恨みでもあんのかァ」
「ええ。あるにはあるわ」
「あァ?」

箱型偽造天使は笑っていた。いっそ清々しい微笑みだった。

「アナタ、『真夜』に薄汚い言葉ばかり吐くでしょう。一度、言われた方の気になってみたらいいと思って」
「ハァ!?」
「わたしは『あのひと』とは違うから。自分の娘は、可愛いものだと思っているのよ」

あのひと。
「アスター」の母親は、愛娘であるその名を持つ少女に「とても酷い事」をしたのだと聞いている。
今現在、その母親が冥府にいるという話は屋敷に住む者なら誰もが知っている事だった。
いや、それにしたって。

「酷い顔ね?」
「……あのマヨネーズのがオレサマに絡んで来るんだがなァ」
「アナタの方が遙かに年上なんだから、そこは受け流して欲しいところ。ね、双つ首の番犬さん?」

嫌味か!
言おうとした瞬間、箱型偽造天使の両目が開かれる。
ぱちりと丸く大きな、夜色の瞳を収めた両目がオルトロスをじっと見つめ返した。

「とにかく、そういう事ですの。真夜はまだ全然子供だから、お手柔らかにお願いしますの」
「……へいへい」

どこからどう突っ込んだらいいのやら。そもそも医者にでも行ったらいいんじゃねェのか、主にココロの……
二つの首両方を綺麗に揃えて左右に振り、オルトロスは縁側から庭へと躍り出た。

「あっ、オルくーん! お話終わったー!?」
「オルトロス! じゃあ遊ぼう、鬼ごっこして遊ぶぞー!」
「やったー! オルくんが鬼ねー!」
「駄目だぞ、アベルー。鬼は俺がやるんだ、この僕が、今、ここでー!!」
「ええ〜っ、お兄ちゃん、ズルいよーこんな近距離でー!」

……こっちもどう突っ込んでいいのやら。
今度こそオルトロスは低く笑った。目の前、広々とした庭で、見慣れた双子の兄弟が歓声を上げている。
その傍ら、付かず離れずの距離を保ちながら、灰色髪の少女が一人立っている。こちらを時折睨んでくる。

(……兄貴がいねェのは、そりゃァアレだけどよ)

芝生を蹴り、ぱっと駆け出す。

(手間のかかるコイツらがいるから、しゃーねェやなァ)

冥府の番犬ケルベロス。彼から学んだ事はたくさんある、たくさんあった。今でもよく夢に見る。
それでも、それを考え込まずに済むのは、ある意味オルトロスにとっては幸福であったのに違いない。




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 UP:15/07/13