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ある天使の回想(楽園のおはなし0章SS)


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(喜劇の天使)


響く雷鳴は豪雨に混ざって暫くしてからもなお、一向に衰える事がなかった。
壁一枚を隔てた向こう側では、今にも群集が扉を破るべく列を成し、拳を振り上げ怒号を轟かす。
煉瓦造りとはいえ、薄い境界一つではそれらを阻む事は難しい。
足音が地鳴りを上げ、迫り来る生者の熱気はいよいよ高まり、風と共に咆哮する。

「救いを! 救いを!」
「我等弱き者に神の御言葉を!」
「天使様ぁああ! どうかこの子をお救い下さい、お助け下さい!!」
「馬鹿を言うな、うちの妻の方が先だろう!!」
「おい、割り込むな!」
「祈りを、祈りを捧げるのです……生贄を、神に穢れなき乙女を……」
「嫌だぁ、まだ、まだ死にたくない……」

――ああ。ヒトに知恵を与え給うた我等が主よ。大いなる神の御手よ。
何故、あなたはヒト等に知恵を与えられたのでしょう。
何故、不死の果実を神の園に隔離なされたのでしょう。
どちらも切っても切れない因果で繋がる果樹であるのに変わりない筈だったのに。
至宝にして、神の園のみに植える事を赦された禁断の儀式精製体……
ヒトが、天使が、下位神さえ肖り知らぬ秘術の結晶。
主よ、あなたがその存在を、その恩恵の内容を外界に明かす事は決してなかった。
これがその答えと仰るのですか。

(もう……わたしに『治癒』の余力は……)

神に授けられた御力は無限なれど、ヒトの私利私欲はそれ以上に留まる事を知らず。
わたしの力はいよいよ底に到達してしまったから、施してきた「恩恵」はもう与えられないのに。
……それを隠れて町の代表者や予言者に打ち明けても、理解などして貰えなかった。
まだ力はある筈、神の遣いであるならヒトを見捨てる事は有り得ない。
怒号が路地裏に響いた、そう思ったら、次の瞬間にはそれを聞きつけた町民らが駆けつけていて、
わたしは彼等の険悪極まる形相と怒声などがあまりに恐ろしくて、溜まらずそこから逃げ出してしまっていた。
穏やかに動植物を愛で、労働に意欲を注いでいた彼等。
何故豹変してしまったのだろう。
天使と神々を心から崇拝し、わたしが神の命を受けて彼等に在るべき正しい道を説くべく光臨したとき、
彼等はわたしを心から歓迎してくれた。
わたしはその声に出来る限り応えようと、治癒の力を行使した。
病人、怪我人、心に傷を負ったヒト。誰もが回復を経ては日常に戻り、ヒトらしい生活を送り続けた。
いつしかそのサイクルが当たり前になり、わたしも彼等も在るべき距離を見失ってしまった。
今、彼等が求めているのは、わたしという天使一人の存在ではなく。
わたしの持つ天使の力、ヒト成らざる者が持つ秘術のみ……

分かり合えると思っていた。
種が違えど、互いを思い遣り、慈しみ、愛し合う事が出来ると。
「ラジエルの実」の存在が神の園にあり続ける限り、歩み寄る事が可能である筈だと。
理解し合えるものと信じていた。

「神……さま」

呟きは雷鳴に掻き消され、喉を焼き切る嗚咽は群衆の声に押し流される。
もう駄目なのだろうか。もう彼等と暮らしていく事を諦めなければならないのか。
そう思うだけで、これまでの日々が脳裏を駆けめぐる。
朝詰みの花、真昼の太陽、薊の道、雨天の蛙、孵化した鳥の仔、夕暮れの丘、満天の星、談笑する人。
あれほど近しく親しくあった毎日を、神よ、あなたは容易く忘れろと、見離せと仰るのですか……

「神様……っわ、わたしは……」
「――わたしは、なんだと言うんだ?」
「っ!?」

町の中心に位置する古びた教会。わたし以外には誰一人存在しない聖堂に、清らかな声が降り注いだ。
視界が一面金色に染まる。気力を振り絞り顔を上げると、わたしの眼前に一人の女性が立っていた。
この世のものと思えない美貌。
手入れの行き届いた長く色の白い肢体、艶やかな光沢を放つ絹織物。
栗色の髪は小波のような緩い曲線を描き、射干玉の瞳はしっとりと濡れたような輝きに満ちている。
可憐な少女のように柔らかな表情でいながら、彼女の雰囲気は凛として気高くあった。

「あなたは……」
「ふむ、噂以上に酷いな」

何が、そう聞き返すより早く、彼女は優雅にたゆたう袖の裾から、小さな小瓶を取り出した。
硝子製と思わしき、ほんのり桜色に染められた美しい装飾を纏う小瓶。
中の液体は無色透明で、喉の痛むわたしの目には、その流動が酷く魅力的に思えた。
目を細めたわたしの眼前、彼女は瓶の蓋を素早く取り外すと、中の匂いを嗅がせるように傾けてみせる。

「アンジェリカ、だな。正式名称は『ラグエル』とか」
「……」
「安心しろぉ。信頼出来る医師から奪っ……譲り受けた清めの水だ。ほら、そのままでは苦しいだろう」
「どうして」
「うん? 『どうして私を助けるのか』か。そうだな」

彼女は「神」だ。それも、わたしが知る限り、かなりの高位に座する古の。
栗色の髪に漆黒の瞳、神衣は絹のシンプルな作り。品位と知識は高いが、物言いは案外男気溢れるもの。
今生のありとあらゆる契約を司る地母神、ヘラ。
その気性は穏やかで思慮深く、対して内面に有する豊富な向学心と好奇心の為に異端とされる問題児。
雷霆を操る最高神・ゼウスの妻でありながら、ヒトに寛容でよくヒトの世に降り立つ事があるという。
その彼女が何故、今ここに。
まるでわたしの声を聞き及んでいたかのように。
黙り込んだわたしの前で、彼女はあろう事か膝を折り、視線をわたしに重ね、穏やかに――

「ゼウスと別居する事にしてな。別宅に小間使いとして力のある天使が欲しいと思ったんだ」
「………………は、はあ?」

――微笑んだ。
偉大なる任を拝命する高位天使と謳われているものの、わたしはあくまで神に従う立場にある「天使」。
それを彼女は慈しみ、その立ち位置や思考を重んじ、自らの屋敷に雇い入れたいという。
神の命とはいえ、ヒトが本分を忘れるほどに力を授け、身を酷使し続けた愚かなわたしを救うと。
他の神等に詰られようとも、自分がそうしたいと思ったから、そう決めたから、堂々と救ってみせると。
何故そんな事をはっきり断言出来るのか。
例え彼女の言う「小間使い」が正解だったのだとしても。
わたしなら、自分の実力や限界を見誤る者など間違っても雇いはしないのに。

「不満か」
「い、いいえ。そんな事は……」
「なら決まりだな、」

瓶の中身は冷たく澄み切っていて、どこか甘みのある水だった。
喉を潤し、上半身だけ起こしたわたしに、彼女はそのしなやかな手のひらを差し出す。

「わたしと共に来い。不自由な思いはさせないと約束しよう」

あれほどまで響いていたヒトの怒声は、悲鳴は、苦鳴は、わたしの耳からすっかり遠退いていた。
今となっては、彼女の声しか聞こえない。
ああ……神よ。天に召します、我等が大いなる主よ。あなたはわたしを見捨てなかった。
ヒトに理解ある彼女のもとでなら、きっとまた打開策を見出せる。
いつの日か、わたしが役目を終え、神との繋がりを失い自由に生きる権利を手にする事が出来たなら。
また、今度こそその時は、ヒトと共に歩む道を生の視野に入れてみても良いのでしょうか。

「『ヘラ』だ。宜しく頼むぞ、アンジェリカ」
「アンジェリカ、またの名をラグエルと申します。どうか……」
「うむ」

あれほどまでにわたしが愛して止まなかった、わたしだけの居場所。ヒトの世の、狭く小さな町。
もう何処にもわたしが存在していたという形跡が残されぬ、近くて遠いヒトの園。
どうか願わくば。願わくば、彼等の前途がわたし無しでも希望の光溢れるものであります事を。どうか……

「救いとは、己が意志の善たる部分に因って齎されるものだ」

見た目以上にしっとりとしたきめ細かい手が、わたしの骨と皮だけになったがさがさの手を取った。
ああ、神様。わたしは折れた心の欲の赴くままに、彼女の住まう世界に行き御話を聞きます。
手を引かれるまま立ち上がると、視界が一斉にぱっと音を立て、切り拓かれた気がした。

ヒトの世、神の園。二つの果樹。
わたし独りではどうする事も出来ないと、足掻いたところでヒトを完全には救えないのだと。
彼女の光臨によって、善意が必ずしも良いものとはなり得ない。そう告げられたような気がした。
例えそれらが、ヘラ様の気分による気紛れの言葉だったのだとしても。
天使は神にはなり得ない。
同時に、ヒトと同一視される事もないのだと。



(ねえ、ノクト。この話を貴方に聞かせたい……わたしの主は、仮初とはいえ本当に素敵な方だったのよ)




■エリヤ書 第  頁

・ラグエル

(ページは空白を示すのみで文字列を読み取る事は出来ない)
「所有/使用権限がない、または読解能力を認められません」
(白き装飾の智恵・エリヤ書は今なお固く閉ざされている……)




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 UP:13/12/14